2026年2月4日 表紙リニューアルの上、再度Amazon配信中です。

いつの頃だろうか。
すべてが順風満帆などこにでもいる夫がいた。
風貌や学歴、仕事や日々の暮らしぶりも特段困ることも無く、それでいて人からうらやまれるほどでも無く、平均的であり幸せにそうに見える夫であった。
しかし、夫には人知れぬ悩みがあった。
このままで良いのだろうか。
今、自分は幸せなのだろうか
出来るなら、誰かと入れ替わって、もっと刺激的な毎日を過ごす人生もあったんじゃないだろうか。
そんなことを考えてしまうのである。
その自分の浅ましさに、寒気がしてまた自己嫌悪に陥るのである。
夫婦というのは、時に棘(いばら)の中を進む道である。
元々は他人だった二人が夫婦となり、どこかへ続くであろう、不安定な道そのものである。
その道をとりかえてみたい、別の道を行ってみたいと思ったとしても、不思議なことでは無かろう。
男は均(ひとし)という。
忙しい毎日を送っているが朝、子どもを保育園に送っていくのは均の担当だ。
妻は香織という。
香織はその時間にはもう家にはいない。
お迎えがあるから残業はできない。
それなら前に残業するしかない。仕事前なのに残業とはこれいかに?
言い換えれば前業だ。なんだか修行のような響きである。
人生の苦難のようなことで考えるとあながち間違ってはいないのかもしれない。
6時には家を出て会社に7時には着いて2時間の前業を行なう。
夕方6時に子どもを迎えにいくには、会社を5時には出ないといけない。
だから、朝の送りはパパであり夫である均の仕事なのだ。
同じように朝はパパという家庭は他にもいくつかあるが、多くの家庭は朝も帰りもママだ。
その様子を見て、均は「自分は子育てに十分コミットできている、自分は、世の中平均のパパより、少し上のパパだと思う」と自己満足しながら、小さく誇りに思っている。
均は朝8時に子どもを預けると、大急ぎで自転車を漕いで駅まで走る。駅まではなだらかな登り坂だ。電動自転車は高かったが役立つ。
大急ぎで駅へ向かって坂を漕ぐ。電気のアシストを受けながら、それでも汗だくになってワイシャツが背中に張り付く。勢いよく通りすぎた駐車場のフェンスの影、何かが気になった。
急いでいたので一度はそのまま通り過ぎたのだが。しかし、何か気になる。目の端に引っかかった影が消えない。
均は一旦、漕ぐのをやめ立ち止まった。電動自転車を押しながら坂をくだる。
駐車場には、鈍く光るワインレッドの車が止まっていた。音は全くしない。海外製の電気自動車か何かだろう。均は、急に自分の電動自転車が恥ずかしくなった。
この車が珍しかったのだろうか。この音がしないこの車が。なんだったのだろう、気のせいか、と、また坂登りへ戻ろうとした時。
車のドアが開いた。男が降りてきた。
男の顔を見て、均から血の気が引いていく。
夏の悪い冗談、おそらくこれはB級ホラー映画のワンシーンなのであろう。
男はあまりにも自分にそっくりの顔をしていたからである。
男も均に気づいた。男は少しびっくりした顔をしたが、落ち着いた声で
「ずいぶん、俺に似た顔をしているね」
真夏の駐車場は摂氏40度に迫ろうとしてるが、均の背中には冷たい汗が流れた。
「は、はいっ」
焦って、うわずった声で均は返事をした。
よくよく見れば顔も同じだが、髪型も同じだ。背丈もほとんど同じだろう。
「に、似てますね・・・、えーと、あ、はじめまして、均といいます」
均は挨拶をした。男はニコリと笑って、手を差し出した。
均はきょとんとした
「握手だよ。はじめまして 均さん」
自転車のハンドルを握りしめていた手は汗でびっしょりだった。ズボンで拭いた。しかし走った汗と男を前にした冷や汗でズボンもびしょびしょだった。
差し出された手をそのままにするわけにはいかない。
あきらめて汗ばんだ手でそのまま握手した。
「俺は高雄といいます。はじめまして」
ゆっくりとしたやさしい声だった。
しかし、声もまた自分と同じだった。
骨格が同じなら声も似てくると聞いたことがある。
こんなに似てるから声も同じなのだろう、と自分を納得させた。
高雄の手は熱く、力強かった。
均は大人になってからはじめて握手したかもしれない、と思いながら、なんとか強く握り返した。
高雄と名乗るそっくりな男は均の顔を近くでまじまじと見つめる。
均もまた、まじまじと見つめ返す。
鏡でもみているような。左右が違うから鏡ともちょっと違う。
違うのは顔だけではない。
表情も違うと感じた。
高雄からは自信を感じる。
服装もラフだ。それでいて気持ちよさそうなポロシャツを着ている。
仕立てのいいブランドを着ているのがすぐにわかる。有名なブランドのものだろう。
この暑さの中でも涼しげだ。
均はふと、これはドッペルゲンガーというやつなのだろうと思った。
世界には自分と瓜二つの顔の人物が存在するという逸話だ。
しかしドッペルゲンガーに遭遇した人物は死ぬと言われていることを均はぼんやりと考えていた。
握られた握手はそのままに高雄がふと口を開いた
「私たち、取り替えないか?」
